- 2024/10/01
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「専門」の垣根を越えた支援を実現
京都市上京区今出川の路地裏にひっそりと佇む「バザールカフェ」。1998年に開店して以来、エイズに罹患した芸術家、薬物依存の既往のある人、暴力・迫害から逃げてきた外国人、性的マイノリティ、刑務所出所者など、社会の中で苦しい思いをしている人々に対して、居場所、働き場所を提供してきた。同店のスタッフ、ボランティアを務めてきた社会福祉士の狭間明日実さん、同店の運営財団クラッパードインの理事を務める牧師の木村良己さんに、支援者/利用者の枠に捕らわれない福祉の実践について尋ねた。
左から木村良己さん、狭間明日実さん
バザールカフェは1998年、牧師の榎本てる子さん(1962―2018)、美術家の小山田徹さんたちが中心となって設立された。当時、社会的に差別されていたエイズ患者、中でも芸術家を支援することが目的だったという。「バザールカフェ」という名前は「市場のように人が集まる場所」をイメージして命名された。着流しで肩肘はらない感じが店の雰囲気に合っていた。
エイズに罹患し、差別された人々を助けるために、医療・福祉専門職、芸術家、活動家、キリスト者、その他さまざまな人々がバザールカフェに集まった。コミュニティカフェとは違い、明確に支援の目的を持っていた。地域福祉とも異なり、日本とアメリカの教会の支援を受けて、広く、多様なネットワークを持っていた。当初はエイズ患者の支援に主眼を置いていたが、薬物依存、性的マイノリティを理由にした差別など、問題は重複していることが多く、支援の対象は広がっていった。
狭間さんは同志社大学社会福祉学科に入学後、現在、同店の代表を務めるマーサ メンセンディークさんの「社会問題実習」のゼミに参加。狭間さんの実習先としてバザールカフェを紹介してくれた。狭間さんは1年間、毎週土曜日に働き、当時、顧問を務めていた榎本さんの人柄に接した。「あんた、ここで働きな」。就労支援施設に内定が決まっていたが、バザールカフェに就職する運びとなった。
狭間さんの福祉の原体験は、高校生の時に参加した釜ヶ崎、あいりん地区での炊き出しにある。私立の高校に通っていた狭間さんが、過酷な人生を生き抜いてきた年配の男性たちにおにぎりを配る。この行為に激しい違和感を覚えた。「『支援する/支援される』この関係は正しいのだろうか? 他に方法はないのだろうか?」。この疑問を解決したくて、狭間さんは社会福祉学科に進んだ。
バザールカフェで働いてみると、児童福祉、高齢福祉などの「専門」に分類できない福祉のあり方に気づいた。福祉を必要としている人々の年齢、性別、国籍が多種多様なだけではない。支援者/被支援者が互いに混じり合い、支え合う関係が生まれていたのだ。その中にいると、「自分を枠にはめなくてもいいんだ」と、救われた気持ちになったと狭間さんは話す。
バザールカフェにはいろいろな「事情」を抱えた人が来るが、最初、狭間さんは「どこまで聞いていいのか……」と、人との距離の取り方が分からなかったという。やがて、濃いケア、近いケアに捕らわれていた自分に気づく。この頃は距離を縮めなくても、気持ちのよい関わり方を学んだ。
牧師の木村さんは同志社中学・高等学校の元校長。98年のバザールカフェの開店当初から、週1回、ボランティアとして参加してきた。仕事の内容はトイレ掃除、フロア・玄関の掃き掃除など。木村さんは学生時代、ネパールでトイレの掘削のボランティアをした経験から、特にトイレ掃除に関しては強い思い入れがある。20年以上にわたって、バザールカフェに協力するモチベーションは何だろうか?
「学校教育は成績で人を評価する『できる』の世界です。しかし、人は幼児の時、または病気の時は『いる』だけで許されています。ここもそうです。『いる』だけでいいのです。私たちはそのための居場所づくりをしているのです」。狭間さんは言う。「ここでは話さずとも、なんとなく人の存在を感じることができます。そして、私の存在もちゃんと認められているのです」
バザールカフェには狭間さんのように、社会福祉士、精神保健福祉士などの専門職がいる。福祉の実践において彼らの存在は欠かせないが、資格・肩書を持たない人々の働きに得るところは大きい。「資格と肩書をあえて明かさない人もたくさんいます」。狭間さんは続ける。「資格を持たない普通の人々の働きが『専門職』の実務的・精神的支えになっているのです」
同店の運営は多くの人々の寄付で成り立つ。カフェ事業だけで収益を上げるのは困難だが、それでも続けるには理由がある。木村さんは語る。「かつて、イエス・キリストは貧しい人、病を得た人、罪を負った人、迫害された人々とともに食卓を囲み、彼らと喜びを分かち合いました。だから、カフェである必要があるのです」