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私の医療・介護物語(182) ライター・エッセイスト岡崎杏里氏(1)
  • 2025/09/12
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父の介護と母の看病 20代から一人で担う

父を介護するようになって、25年以上が経過しました。現在も続いていますが、私の人生の半分以上、父の介護をしている計算です(年齢がバレてしまいますね……)。その間に母ががんになり、私は結婚をして家を出て子どもが生まれ、母にも介護が必要になりました。現在、父は施設に入所し、母は天国に旅立ちました。今回は、この長い長い介護生活の始まりをお話しします。

50代にして、糖尿病など生活習慣病に悩まされるようになった父。大好きな甘いものを控えるように医師から言われても、ハワイ旅行で自分のお土産として購入した“ナッツのクッキー”1袋を1人で平らげました。直後に血圧が急上昇し、脳出血を起こし、救急搬送。脳血管性認知症かつ65歳以下なので若年性認知症になってしまいました。

3年後、父の介護と父が興した事業運営に一人で奮闘していた母に卵巣がんが見つかります。結果、一人娘の私が20代にして、父の介護と母の看病を担うことになったのです。

当時の私は会社員で、家には寝にだけ帰っているような生活。父の認知症は思った以上に深刻な状態になっており、インターネットは黎明期だったため、認知症のなかでも若年性認知症は関連する情報を探すのに一苦労でした。認知症という病気の理解が追い付かない中、母ががんだと父に何度説明しても忘れてしまい、感情の起伏が激しくなった父と衝突ばかり。取っ組み合いとなり、怒鳴りあう親子に気づいたご近所さんが止めに入ったこともありました。そのうちに、心身ともに疲れ果てた私は過呼吸で倒れ、不眠に悩み、消えてしまいたいと思うまで追い詰められていったのです。

「自分も倒れてしまう」と心療内科を巡るなかで、“介護保険制度”を知ります。しかし、制度が出来てまだ3年。地域包括支援センターが設置される前で、役所に相談に行きたくても平日は仕事です。同世代の友人には相談できずにいました。

ある日、同級生の母親から電話がありました。彼女は父が通院していた病院の看護師で、母と同じ病気で闘病中ということもあり、私のことを心配してくれていたのです。病に倒れ夢は叶いませんでしたが、ケアマネジャーを目指していたこともあり、介護保険についての詳細を教えてくれました。ここまでやって来られたのは、ピンチのたびに救いの手を差し伸べてくれる人の存在があったからです。最初の救いの手を差しのべてくれた彼女には天国で母がお礼を伝えてくれているはずですが、助けてくれた人たちへの感謝を忘れずに、私もそういう存在になりたいと思っています。

介護保険の詳細がわかっても、母はまだ若い父が介護保険を利用することに抵抗を感じて大反対。それをなんとか説得して、介護保険による介護サービスの利用が始まりました。あのとき、我が家にやって来たケアマネジャーやヘルパーさんが女神のように見えたことは今でも忘れることができません。(続く)

(プロフィール)
おかざき・あんり 若年性認知症の父親の介護と卵巣がんになった母親の看病を20代から担う。その後、子育てと介護が同時進行のダブルケアラーに。著書に自らの経験をつづった『笑う介護。』(成美堂出版)など。
オフィシャルサイト https://anriokazaki.net/

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